無質量置き場

星と写真と独り言

女として、母を妬んでみる。

感想である。

先に言うと、母と言う存在は、空想上の、である。

 

ふと考えついた事なので、(きっと数ヶ月後には『何言ってんだろコイツ』ってなるんだろうな)と思い書き留める。

 

私は、女性として生を受け、今のところ女性として生きている。

(ド喪女だが)気高き、栄誉ある孤立である。

 

社会からみた相対的ポジションの話は置いておく。私は充実している。

嘘だ。彼氏とか家族とか友人とか置いておいて、ずっと欠落している感覚を抱えたまま集団社会を過ごしている。つまりリア充かどうかは関係ない。

世間からみたリア充と言うポイントを差し引いて、私のリアルは充実していない。

 

自分の中に空いた穴を、何かしら確固たる関係、(性別問わず)縛り付けられたカルマ、そこから生まれる関係、を望んでやまない。

 

それは自分という軸が20代に入り未だ定まっていないことを、自分自身不安がってたまらない事に他ならない。

 

誰かに自分を肯定してもらいたい。

 

『あなたは大丈夫だよ』と言ってもらいたい。

 

今日もYouTubeで適当な動画を見漁る。

同年代の女子のお喋り、好きだった90年代のピアノロックバンド、くだらないトークをするグループ動画、銃を撃ち合うゲーム配信、しょうもない恋愛のテクニック、当たるかわからないタロット占い、等々。

 

時々心理系の動画がアナリティクスでおすすめされることがある。同年代の、一般的な悩み(多くは恋愛や、社会に対する事)に関する動画を見ていれば辿り着くのは不思議ではない。

 

つまむ感覚でポリポリ動画を見ていると、内容はこうだ。

『つい泣いてしまう人の特徴!』みたいなタイトルで、いわゆる精神科に罹っている人に当てはまるパターンの1つである『泣いて、慰めて欲しいという退行』に対する『自立』についての話を、おおよそ健常であろう、医者らしい薄緑の格好をした人間が数分喋って、礼を述べて、動画は終了する。

『皆さんは、お母さんに褒められたかったから今も泣いてるんですよ』的な。

 

なんか、わかんなくもない。けどコメント欄を見ると『泣きたくて泣いてるわけじゃないのに』と言っている人がいる。私もそう思った。

その動画は『見返り』がベースの泣き喚き(まさに赤ん坊である)と、自分の言いたい事も言えなかった(ポイズン?!)トラウマに関しての脳内処理落ち用冷却水として出る涙をはっきりと動画内で区別していない。(それはそれで厄介だが、私にも思い当たる節があるので積極的に後者を擁護している)

 

何が言いたいかというと、そういう意見は少数派で、それ以外のコメント欄は『なるほどです』『タメになりました』『私も泣きたかったですけど、自立していかないとですね』などと、妙に丁寧な口調で、”マザコンをやめろ”という簡潔な内容に対してお礼を大体5行分ぐらい述べていたのだ。みんな、丁寧だな。

 

そこでふと思う。この動画や、皆んなが取り上げ、また持ち上げ、そこからの脱却を臨む”母親”や”母性”ってそんな凄いんですか。って。

 

命が生まれると言う感覚は、例え様も無く尊い。二つの命が一つになり、無から宇宙が生まれる。言葉や歌が生まれ、踊り出す。そりゃ尊い。はずだ。

 

だが、女として、そして母から生まれた身として、そしていずれ母になるかもしれない立場として、母親ってなんだ?とあらためて思う。

 

私の母はまあ、幼い私の持ち物に名前を書いてくれたり、慣れない雑巾を縫ってくれたり、美味しい料理をパパッと作ってくれたりと言う”いわゆる良妻賢母な面”も持ち合わせていた。(今は居ないみたいな書き方だな)(健在ですよ)

”も”と言うのは、それを母がこなせた、と言う感情に陥ってしまっただけだ。それ以外の事も勿論する。

 

当日急に友人と出かける。女友達の家にそのまま泊まり、終電でも帰らないことがある。ないものねだり。怒ってる父親と、それに困る私を置いて早足で家に帰る。急にヤケになって大声を出す。

 

いや、”人間”なら当然の権利だと、この書き方なら当然気が付くだろう。

母親にも権利はありますよ、と。しかし今日はあえてこう書いてみる。

 

私の『母(ここには実名が当てはまる)』が、一定の権利を放棄して『母親(ここには実名が当てはまらない)』の部分を担ってくれただけですよ。と。

 

もちろん、トランスジェンダー女性などの中には、自分で孕んだ愛する人との子供が欲しくてたまらない人もいるかもしれない。その”放棄する権利を放棄する”くらいなら私はほしかったです。と。

その中で女性として生を受けた私に与えられているのは

『殺し合いをしないで済んだ世界で、人間の得た権利を選ぶ権利』だ。

 

自分で書いててややこしくなっているが、まあ母親の神聖化ってすごいよね、て話。

 

父親の背中を見て学び立ち去ったとしても、母親の腹にはいつまでも泣いて縋りつく。

 

望郷。

 

心に傷がついた人の多くは、その癒しが『母親の慈愛に溢れた眼差し』によって癒されると信じ切っている。

 

みんな、どうしてたった一個上の鎖だけそんなに輝いて見えているんだ?

 

 

野良猫がよく庭に来る。一昨年の春、痩せた母猫が2匹の子猫を連れて親の同情心を勝ち取った。少しのキャットフードに目一杯かぶり付いている。コイツらは運が良い方だ、と思う。

”インスタグラムのおすすめ欄”に、死にかけでハエが集ったガリガリの子犬を保護し、洗い、ふかふかになるまで育てる動画が流れる。死ぬほどの量のいいね!が押されてる。私は運が良い方だ、と思う。

それだけなんだ。”それ”を植え付けられているだけ。

 

そして私もいずれ『良い運』を提供する側に回る権利を”選ぶ”のかもしれない。

 

虐待を受けていた過去のある人は、大抵は他者と触れ合って初めて自分の境遇が『運の無かった側』だと知る事になる、とどこかで読んだ。歪んだフィルターを通して、君を感情に任せて殴っていた『彼女』は『母親』になり、ついには『神様』に一番近い存在に成っていたりする。

ユニコーンと言われ思い浮かぶ、キラキラした角のついた白い馬みたいに。誰も見たことの無い『美しい母親像』は、自分のフィルターを通して自分の母を少しずつ捏ねくり回し、いつの間にかウェーブがかった金髪の女神様みたいに仕立て上げてしまう。

 

私がこれから好きになるかもしれない何処の誰かも知らない君も、『母親』と言う存在は決定的で揺らがない唯一無二の絶対地位を築いていて、君の脳内を占拠し続けているかもしれない。

私は勝てない。『お義母様』とは別次元の存在に『君だけの母親』は居る。

 

すべては

腹を痛めて産んだ子、いや腹を痛めて僕を産んでくれた神様だからだ。死ぬ思いをして約半年重い腹を引きずって吐き気に耐え、死ぬかもしれない可能性を内包したまま希望に胸を膨らませ、血を流し命を産む。事をする。権利を選んでいただいた。

 

そうか、

そうすれば、少なくとも自分の子に対しては一番神様に近い存在に成れる。のか。

書きながらゾッとする。私が欠けていると思われる虚構を子供で埋めるような人間にだけは絶対になりたくない、と思う。これは綱渡りする前の誓約書なのかもしれない。