私には、固定の居場所が存在していない気がする。
これは、ただの天邪鬼精神かもしれない。誰でもそうかもしれないし、『お前が落ち着いてないだけだろ』 と言われればそう、で終わりなのかもしれない。
どこにでもいるようで、どこにもいない。
一度は感じたことのある人もあるだろう。
結論、私は何処にもいない、”それ”が居心地がいいと思うから、そうする人なんだと思う。
『なんだと思う』と他人事でかききるのは、やはり不安感が常に付き纏うからだ。
本当に満足しているなら、冒頭のような自意識過剰なセリフは出てこないだろう。
孤独を愛しきれたなら、自分を愛しきっているということだ。
本当に自分に満足しているなら、山に籠ったところで、塔に閉じこもったところで、毎日それはそれは充足しているだろう。(そうでもないなら、精神分裂症の詩人のようなことになっていると思うが。)
私は少なくとも、後者のように、人を愛しても、自分を愛しきれないことで何処に足をつけていても落ち着かない夢遊病患者のような気分になり、そのまま、顔を出したり出さなかったり、そんな調子でずっと、過ごしている。
中学・高校時代には部活動に専念していたので、まだ”コミュニティに属している”感があった。
それでも、部活を掛け持ちしていたので、(幽霊部員だったけど)この時から私の分裂癖はあったのだろうと思う。
大学も卒業し、フリーターをしながら委託された仕事をかなり細々やっている今となってはますます自分のコミュニティを持ちたくて仕方ないような気もすれば、誘われては抜け出したくて仕方がない。
定期的に遊びに誘われるグループもあったのだが、何となく気が合わないまま(当然だ、自己開示して手に入れた居場所じゃないのだから)疎遠になってしまった。
長く付き合っている友人はいるが、別にそれって居場所じゃないしな。
居場所とかいう以前に、露出が少ない(外に出る機会が少ない)と友人からは思われているのかもしれない。
しかし、近頃は(というか本当に今日になってみて、)私は露出が人より多い方だ、と考えるようになった。
ツイッター(X)のアカウントも複数ある。インスタグラムのアカウントも2つある。ブログも実は、もう一つ持っている。
音楽が好きな自分、写真を楽しむ自分、楽しみたい自分、苦しみたい自分、面白がりたい自分、自分の頭の中にはいろいろな感覚があって、いろいろな趣味がある。
人間が多面体なのは、当たり前のことだ。
ガーデニングが趣味のライター、主婦だけどボディビルダー、料理家でインフルエンサー。等々。
普通、武器にするわな。
ある日突然+αの要素として(モデル+経営者)加える人も少なくない。
だが、私の場合ある程度まで考えが膨らむと、『この部分を君たち(今いる場所)に見せるのは、違うのじゃないか』とある種の潔癖症を発症し、別の居場所(というか物置)を作ってそこで見せればいいじゃないかと思ってしまうのだ。
君は私のA面を好いてくれたなら、B面を見せるのはよそう、と無意識が働くのだ。
文章を書くのが好きなので生まれた、ここもその一つだ。
なぜだろう。
多趣味を通して、自分を少しずつ切り分けて、ばら撒いている感覚なのだ。
誰かに全てを見せるのはとてもじゃないけど恥ずかしい、と思ってしまう。
だから、私をあちこちにばら撒いて、何となく安心する。
これが全てです、ちっぽけな全てです。
これしか、
出来ませんでした、という懺悔で、セルフ罰を快感する。
私にとって本当の健全さとは、どこにも出ないのが正解なのだろうかもな。という気持ちもある。寂しいけど真っ暗なもしもに少し 安心する。
友人を”わたし”という人格に招き入れたところで、親しき中にも礼儀あり、とはいうが、礼儀も何も、間取りから何から増築しすぎて、どこがリビングかもうわからないのが現状である。
誰かに全て預けてしまいたい気もするし、自分だけの聖域として城を築き上げるのも楽しいかもしれない。
そうなった場合、掃除は大変そうだが____。